過去帳によりますと、天正の昔、佐賀県藤津郡原町(塩田町)に勢力を広げていた原豊後守直影が開基であります。「開基」とは、寺院の創始にあたって必要な経済的支持を与えた者、ないし世俗在家の実力者を指す語です。
当山開創は永禄八年(1565)、その後十余年の星霜を経て伽藍を天正十年(1582)十月十七日に建立しました。
当時は、籾嶽城、蟻城、能古見城は原一族の三城と呼ばれ、城主原豊後守直影は勢力を拡大していましたが、隆造寺隆信に従い出陣し、有馬・島津の連合軍と島原の陣に於いて敗れ、天正十二年三月二十四日に夢去しました。
この戦いには、郷土の人々も多く戦場に従軍させられたものと思われ、その
霊の安らからんことを願い、原豊後守直影の妻、花岳妙誉大師は郷土と関係の深かった配下の家臣を永林寺にて供養したと伝えられております。
その後、幾度かの変遷を経て昭和十五年に現在の本堂が落成し、昭和四十九
年に庫裡再建築竣工し、同五十六年に開山四百年慶讃法要を催し歴史の重さと護法の重責を感じておるところです。
永林寺は、福井県の永平寺と神奈川県鶴見の総持寺を大本山として仰ぐ曹洞宗のお寺です。