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触れられた手のひらの
やわらかなぬくもり
いつから触れられることに
気はずかしさを憶えるようになったのか

つないだ手
背中を押す手
お腹をさする手
やさしい母の手

それが今では嫌でたまらない
触れられたら
何の力もない子供に
戻ってしまいそうで

いつか
素直な気持ちで
その手をとれる日が来るだろうか
もしかすると
そうしてやっと
本当に大人になるのかもしれない

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初日の残像


フロントガラス越しの灰色の海と空
あきらめかけた眼前で
静かに光をはらんだ雲は
その威光におののくように裂けた
黄金色の光があふれ
海は世界の始まりのように輝いた

わずかな時間
許された出来事

あの人のそばにずっといられるように
繰り返し願っていた
願いながら
再び雲に隠された太陽の行方を思った

鉛色の雲が東の空へ流れていた
太陽はもう見えなかった

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 狂気

死んでしまいたいと
母は泣いて
髪をふりみだし
畳に爪をたて
狂ったように身をよじった

うなだれた父の背に
責める言葉を投げつけても
確かな答えはなく
抱きしめた母の
揺れる体だけが真実だった

もう何も信じたくない
もう誰にも笑い返したくない
母を連れてどこかへ行ってしまおう

けれど
うなだれたままの父は動かず
行き場のない思いとともに
母を抱きしめるしかなかった

うぐいすが鳴いて
庭には木蓮が咲いていた
こんな明るく暖かい春の日に
私たちは
狂気の嵐の中にいた

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 その日

軒先には夜中に作ったてるてる坊主
ざわめいた座敷から見上げると
空はくもって白く光っていた
支度した真っ白い衣装を気づかいながら
冷たいなますを食べさせてくれた
しわばかり目立つ母の手に
ありがとうをつぶやくのがやっとで
決まり文句のあいさつもせず
立ち上がっていた

その日に
何が変わるとも思えなかった
けれど
「こんにちは」と入って
「さようなら」と出て行く
その家にはもう私の部屋はなく
新しい名前で呼ばれて返事をしては
ふと気がつく

その日に
たくさんのことが
大きく変わっていた
見えなかった私の立場も
変わっていた

だからその日は
いつまでも大切な一日