多郎浦 和子投稿 記録


20136月7日校正してない意見陳述書です。

佐賀地方裁判所 御中

住所 佐賀県武雄市北方町大字志久

氏名 多郎浦 和子

この様な神聖な場におきまして、代読をお許し下さり感謝します。 
先ずは、障害者代表として意見陳述をさせていただく私自身の身体の状態から説明させて戴きます。
私は幼い時高熱により運動神経が麻痺してしまったため「脳性麻痺」と診断を受けました。脳性麻痺と言っても、脳の犯された部分によって障害の程度も異なります。
私の場合は歩く事も、立っている事も、寝返りすら思う様に出来ない状態です。
話そうとすると、自分の意志とは逆に身体が反応し声が出せなくなります。
特に話そうと思えば思うほど、全身の筋肉が硬直し呼吸をするのがやっとと言う状態になります。
この様な重い障害者の私が、2010年の当初から、「玄海原発プルサーマル裁判の会」の皆様と共に、何故、雨の日も風の日もめげる事無く裁判所に通い続けているのかを今日はお話させて下さい。

 現在、私は自宅で訪問介護を受け生活しています。けれど、この自分の家で暮らすと言うごく当たり前の生活は、二六年程前の障害者、特に私の様に重いハンディのある者にとっては、描かれた餅を眺めるのに等しい事でした。あの頃の障害者、重いハンディのある子供達は義務教育の保障も無く、保護と言う名のもと人里離れた施設へ収容されていました。私は児童と成人の施設二カ所で約二十年間生活してきました。施設での友人は多く出来ましたが、その半面、地元の友人は無く、実家に戻った時は浦島太郎の状態で、地域に馴染むまでには施設生活の半分の年月がかかる苦労をしました。
また子供時代の施設では、月に二度の面会と年に二度の里帰りだけが唯一両親・姉妹との一時を過ごせただけの、孤独な学生生活を送ってきました。
 
 この様な辛い時代を私は心のバネとし、様々な障害者運動に参加してきました。
私の障害者運動のスタートは、全国的な草の根運動として広まっていた『わたぼうしコンサート』活動からでした。
この『わたぼうしコンサート』は、様々なハンディを持つ障害者自ら、心の葛藤を詩に書き綴り、その詩に一般の人々が曲を付け、これらの中から詩と曲が選考されるのです。
そして一年がかりで障害者の人と一般の方とで作り上げた歌が市民会館ホールにて
公開された全国的にも有名なイベントでした。
 次の詩は、『わたぼうしコンサート』で入選した私の作品です。
作品としては珍しいと言われた佐賀弁の詩です。
どうか、しばし耳をお貸し下さい。

「うち よそんもんのごた
 うち学校に行きたかった 普通の学校に行きたかった 
 学園でも学校に行けたけど 廊下通学はおもしろうなか
 天気の良か日も帽子かぶられん 雨の降っ日も長靴はかれん 
 傘も買うてもらわれん 
 そいばってん先生言うとった
 お前たちは幸せもんばい てんとうさんの照りつくっ日も 
 雨の降っ日も 雪の降っ日も 
 ここにおったら勉強でく

 ばってん、やっぱい うち学校に行きたかった 
 普通の学校に姉ちゃんと 
 菊の花のついた 赤い弁当箱に 
 母さん作った卵焼きを入れて
 姉ちゃんと弟と3人そろって 
 父ちゃん母ちゃん 行って来ますって 
 三人そろって言いたかった

 うち友達たくさんいたけど 近所の同級生 誰も知らん 
 みんなうちのことを 不思議そうに見た 振り向いて見た

 うち よそんもんのごたー うち外国人のごたー
 うち立ちきらんばってん この町のもん
 うち歩ききらんばってん 普通の学校に行きたかった」

 まさかこの様な場で、未熟な詩を披露するとは思いもしませんでしたが、あえてこの詩を朗読させていただきましたのは、佐賀で初めて、車椅子の少年を普通中学校へと、送り出せた記念の詩でもあるからです。

ある車椅子の後輩が、普通中学校への進学を希望した時のことです。
佐賀県では、「障害者受け入れは前例が無いから」と言う理由だけで、校長先生の強い反対を受けたそうです。
その時後輩の親御さんが、この詩を引用し朗読され 「ハンディを背負う子供達に、この様な辛い想いをさせないで下さい」と、必死に説得されたそうです。
その甲斐あって校長先生を説得でき、普通中学校へ入学出来たと聞きました。ですから、私にとっては未来を受け繋ぐ後輩達の捨て石となれた様で、嬉しい思い出の詩なのです。
その後の彼は、幼なじみの仲間と協力し大学へ進みました。今では佐賀県初、車椅子での県庁職員となり、可愛い子供の父親となられています。その後車椅子の後輩等は、まだまだ困難はありますが、望めば普通中学校へ入学出来るすばらしい現代になりました。
この出来事は私には大きな励みとなり次の原動力となったのです。

 またあの頃、夢や希望を後輩等と共に叶えるためボランティア活動「さがん街ウォッチング」などへ参加し、多くの市民ボランティアさんらと共に、公的設備設置の嘆願書を集め、当時はまだ聞き慣れないバリアフリー化を目指していました。
身障者でも盲人でも、お年寄りも、子供も大人も、妊婦さんでも観光者の外国人で有ろうと、誰もが安全で分かりやすいと言う視点を持ち、佐賀の街を点検し歩きました。
そんな「さがん街ウォッチング」の活動で特に私が困ったのは、身障者トイレの問題です。
その頃街に身障者トイレが無いのが通常で、駅に一カ所有る程度でした、ですから、外出前の日から食べ物や水分を調節し我慢する事も通常でした、その為か女性の身障者は殆ど参加できていなかった様に記憶してます。
そんな中私は、車椅子ユーザーに対して何の安全整備もされてない、エスカレーターや電車やバスの乗車実験員だったり、気球の初乗りをさせられたりしました。
それまで、重度身障者の人を乗せたくても、身障者自身の協力の申し出が無いと言う事でした。ですから、私の気球への初乗りは、バルーンフェスタの開催地ということもあって全国ニュースとして大きく報道されました。
それから間もなく、気球に車椅子用バスケットが整備されるようになったそうです。
今ではバルーンフェスタには毎年多くの人が、障害のある人も無い人も国籍をこえて、佐賀の大自然を大空から満喫しています。

時代はバリアフリーと言う言葉が日常に定着し、今では車椅子のお年寄りや様々なハンディを持つ若者達が、ごく普通にすれちがい、挨拶を交わし譲り会えるコミュニティ溢れる社会となりました。これらの佐賀の発展を何よりも私は誇りに思ってます。
きっと福島の方々も原発事故前は同じ様にお年寄りや様々なハンディを持つ人びとが家族や地域の人たちと過ごされて居た事でしょう。 
けれど原発事故後、多数の福島の方々は、まだまだ仮設生活にて過ごされておられます。
また、お年寄りや障害者は未だに、病院や施設での生活を送られていると聞きます。
同じハンディを持つ者として、私が何より心配する事は、避難された障害者の方達は、住み慣れた自宅でもなく、使い馴れた寝具も無い不便な生活を強いられ、どんなにか精神的にストレスを感じておられている事でしょうか。
私と同様な重度障害者や特に高齢者が、長期避難を求められることは死を意味します。
体力的な問題や、それ以上にコミュニケーションが取れず、生きる意欲を失うからです。
そんな辛い被災者の人々の心の中にある故郷に戻れない怒りや悲しみを、原子力発電所が有る地域の私達が受け入れ、二度と同じ過ちを起こさない事と思うのです。

また私の街でも、原子力事故の玄海町からの避難訓練が行われていたので、最寄りの役場へ電話で「車椅子の方も参加されてますか?」と聞いてみましたが、障害者の方は参加されていませんとの事でした。
それでも、玄海町の方がせっかく近くの体育館へ来られるのだから、一目でもお会いできたらと思い、その予定表を確認したところ、体育館へは30分のトイレ休憩だけでした。
後はほぼ観光地巡りの予定表だったので、これでは車椅子や足の悪い人の参加は無理で、避難訓練とは形ばかりだと悟りました。

障害者は通常風邪をひいただけでも、訪問介護や施設も病院さえも受け入れてくれる所が見つからない現状なのです。だから、障害者にとって自宅からの退去は砂漠へ置き去りにされると同じことなのです。クッションひとつが一晩なくても、痛みで眠れず、褥瘡(じょくそう)が出来てしまうのが重度障害者で、重いハンディを持つ者の多くの人は避難したくても出来ないのです。
ですから、重度障害者や老人は、戦時中の様な避難を強いられることのない、我が町我が家での平和な暮らしが願いなのです。

それでも、産業発展のために危険性を覚悟の避難訓練ならば、人災は天災と違い予想が立てられます。先ずは未来を担う若者たちの健康と遺伝子だけでも、確実に守れる保障と被曝の賠償を決めたうえで、九州電力と国民個人個人と契約を交わせたらと切に願います。
どうか人災による避難訓練などしないでも良い配慮をお聞き入れ下さい。

また日本は唯一、人類初の原子爆弾投下と言う被害を受け苦しんだ被爆国で、また様々な公害をも多く経験してきた国でもあり、この半世紀、人災による被害は数えきれなく有ります。
代表的なものとして1955年森永ヒ素ミルク中毒・1956年水俣病と、それに1960年代には石炭によるばい塵・じん肺・煙公害が問題視されてきました。
石炭から石油エネルギーへと転換し、また第二次エネルギー革命へと向かい、日本の経済発展のためと信じた、勤勉な労働者たちは何度となく被害を受け苦しみました。
けれどそれ以上に、原子力発電所がいかに恐ろしいか、福島原発事故を体験した、日本人ならば、福島の悲しみと、これから苦しむであろう被曝病を忘れてはならないと考えます。

また人災と言える原発事故は、今までの公害と比べようも無い遺伝子にまでも被害を刻むものです。
なのに、原子力発電所と言う平和利用の名の下、電気料金と引き替えに再稼働しようとしています。これ以上使用済み核燃料を未来に残してはいけないのです。
今、私達の生活基準を節電で下げたとしても、子ども等の健康だけは守り抜かなければと想うばかりです。
チェルノブイリ原発事故後、1990年頃から子ども達の間で甲状腺ガンが急増しました。また放射能の影響を受け生まれてきた子ども達の多くは奇形児として過酷な人生を送られています。どうか未来の日本の子ども達にハンディを背負わせないで下さい。
重度のハンディを持つ私が願う事は、産まれ来る子ども達の五体満足なのです。

それに汚染の無い大地さえ在れば、住み慣れた人々とのコミュニティを復活させられます。
けれども、人災による原発事故は戦争と同じく領土を失い、永遠に避難者となるのです。
それでも生きて行ける保障を九電に願いたく想います。
とくに重度の障害者や高齢者は、クッション一つ在るか無いかの些細な環境の変化にも対応できません、弱者とって長期避難は拷問による死と同じなのです。
どうか障害者であろうと無かろうと、我が国の誇る憲法のもと皆の健康を守って下さい。

裁判官様どうぞ、私達佐賀県の未来を「合理性がある安全上の基準を満たしている」などと、大阪地裁のように非道な判断をしないで下さい。
どうか真実の「合理的配慮」をなされる様にと願っています。
平成18年12月13日、国連本会議において「障害者の権利条約」が採択されました。
世界的な人権意識を用いて公正な裁きを切に願います。


2011年7月5日投稿

古川佐賀県知事様へ

掛け替えのない犠牲のもとで、学んだのは脱原発です。
 
 「2011 年 3月 11日(金) 15:00〜16:00 その日私は、佐賀地方裁判所にて・
MOX 燃料使用差止請求事件 第 2 回公判の原告の一員として参加しておりました。
車椅子使用の私は長時間の裁判が体力的に心配でしたが、未来の子供たちの健康を想い。 人災となる原発で、ハンディを背負わせられる未来だけは、と言う思いで
最後まで参加させていただいた裁判でした。
 この裁判で私が一番驚き怒りを憶えたのは、九電の方の神も恐れない発言
「次回は 原発安全神話を崩せる証拠をもっと多く」と言った内容を・自信に満ちた応答で裁判があっけなく終わった事です。
この直後震災を知る事になった私は 怒りの感情で一瞬でも、原発安全神話の崩れる願望に捕らわれた事に、
悲惨なテレビを見る度に後ろめたさを感じてしまいます。
もう此れ以上原発の人災である被害を出さないのが 震災者さんたちへの礼儀ではとおもいます。
そして又 玄海原発が停止をしたのは、2010年12月15日玄海原発3号で
放射能漏れ事故が起こり、12月10日原子炉を停止した事から私たち県民に
説明したうえで。想定外の地震・津波・テロ・コンビュターサイバーウイルスなどなど
全てを安全と言いきれる人が居るでしょうか。
 今震災による大きな掛け替えのない犠牲のもとで、学んだのは脱原発です。
原子力発電コストが安く思えるのは発電コストだけで使用ずみのゴミは子孫永劫と
冷却し続ける電力が必要と聴きます、又ウランはガソリンよりも資源が乏しいと聴きます。
今こそ新たなエネルギーと転換の時・それらは繰り返し世代に再生できる自然エネルギー  究極は個人が作り個人が売り買い出来る グロパールな PPS 改革を国会の柱とし
震災復興へ繋げて欲しいと願いうばかりです。」



佐賀新聞 2004年5月5日投稿

この度は 佐賀新聞創刊120周年記念におかれまして 星野富弘「花の詩画展」を佐賀県で催し下さり、またこの様な開会式に招待頂き感謝申し上げます。

私にとって星野富弘さんは雲の上の存在でも有り、また同じ試練を乗り越えた
戦友のような親しみを持ち、この数年星野さんのカレンダーの絵やメッセージ
時には同じ重度の障害者として、母に対する気持ちにうなずき、
また時としては同じ
キリスト信者として感心し、まさに星野富弘さんは私にとって心の戦友だと、
おくがましくも、一方通行ですがそう想っています。

私が星野さんを一番尊敬するのは、やはり不慮の事故で重度の障害をおってしまったにも係わらず、残された機能をパワフルに活用する切り替え方と勇気です。
 私も手足が殆ど思うように動かせない重度の障害ですが、私の障害は赤ん坊の時の高熱で、運動神経が成長出来ないままの状態で、歩ける喜びの代わりに車椅子へ乗れる喜び、
寝たきりの・0からの喜びを両手が使えなくても、あれもこれも出来る喜びを知ってますが、星野さんの様に成人になってからの中途障害者のマイナスからの復帰は、無くした五体満足が大きすぎ、殆どの中途障害者の方はささやかな可能性を諦めてしまわれるのですが、やはり星野さんにはささやかな喜びを共に分ち合ってくださる素敵なご家族がいらしたからでしょう。

 星野さんが辛い入院時期、見舞ってくれた方達に一人一人にお礼の言葉に添えられた絵と同じように、私も幼い頃家族と離れ施設生活中、月に二度の面会、母を喜ばせたくて描き始めた絵が、在宅生活のちょっとしたきっかけで、個展を開いたり、思いもかけず世界レベルのインターネットでのアートカード販売へと、あまりの発展に私本人としては、ただ好きな絵を描いただけの事と、口に絵筆をくわえ描く事だけが売り物になってはなどと自分の技術のなさに悩んだこともあります。私の様な者でも悩むのですから、星野さんの心の葛藤は如何ほどかとさっします。

 そんな悩みの時、画家の恩師である土師氏から「あなたは世界一下手に描ける天才画家だね」と言われ肩のちからが抜け、ますます絵を描くのが楽しくなり、自分らしく書ける様になりましたが、最近体力的に自信が無い私が挑戦し出したのは文字です 。
 
  星野さんも私も作品の根底にあるのは、キリスト信者としての
福音・神のメッセンジャーを追求しているからこそ、現代人の心を和ませる要素を持っているのでしょう。 


今回、星野富弘「花の詩画展」を佐賀新聞創刊120周年記念に開催されたことは
佐賀県民として心より嬉しくおもいます。

 
     
「地球人として学ぼう」
2004年 教育エッセー 
   西日本新聞佐賀県版「はつらつ広場」 多郎浦 和子

近年よく私も、講師として小中学校から招かれるのですが、現在の教育現場では
地方にも係わらずに、問題点は同じで、不登校、いじめ、学級崩壊、学力低下
問題など学校教育は難題山積です。 この国では、悲しい少年事件が続発し、不登校の子どもが十四万人と言われ、日毎増加してると聞きます。物質文明化のなか精神性が退化し、社会力、学校力、家庭の力が非力な時代、子供達ばかりではなく大人さえも、何かをキッカケに引きこもってしまうこの現代を修復しょうと、厚生省では「新しい時代を切りひらく心豊かでたくましい日本人の育成を目指し」またお役所の方が机の上で提案されたのが、「日本人のアイデンティティーを再構築したい。国や伝統を愛する心、国家への誇りを取り戻し、自信喪失から脱却しよう」と言う理由で小学校から大学まで、従来のありようを一変させるような「構造改革」を押し進められてます。 けれど今やグローバルな地球的意識こそが、現在日本人に欠けているユニバーサル建設精神を生み出すのではないでしょうか、「強い国家」を目指すその遠景には、かつての軍事政権の教育を想い浮かべずには居られないのは、私の思い過ごしであって欲しいと願う今日このごろです。そして又私が講師として小中学校にて常に訴え続けている問題も同様、外見は平等と言って・養護学校さえも、公的負担の軽減とし特別学級を増やしては、普通学級の先生方も増やさずに、塾通いの優等生ばかりを優先的に企業戦士として、安上がりの教育を目指そうとしてる今・教育現場は大変だと思います。しかしだからこそ普通学校で養護学校の様な、設備と少なくとも教員数を増やして頂き、
学習指導だけでなく、生きる力を与えたり、不登校の原因と解決方法を個人レベルで指導していただければ、いじめ・不登校・引きこもりに歯止めをかけられる、有効な手段だと
確信してます。 今の 学校教育で大切なことそれは、世界に通用できる将来リーダーシップをとれる人材の発掘です。それはあくまでも「強い国家」ではなく異文化に対応出来る、地球人としての自覚と絆の強さではないでしょうか。




未来に 教育エッセー   多郎浦和子
  
「障害者の選択権に学ぼう」  
 (8月7日付西日本新聞佐賀県版「はつらつ広場」)

 不況続きの日本で、今後ますます犠牲となるもの。それが生活の基盤である福祉や教育ではないだろうか、私はそう懸念しています。教育費削減など、私たちの権利は分からないように静かに、しかし確実に制限されてきていると実感します。

 人の尊厳は決して金銭で量り得るものではありません。先日閉会した国会で与党三党が提案した「障害者基本法改正案」では「障害のある人が、@差別なく採用され働く権利A教育の場を選択する権利B地域で自立した生活を営み、交通機関や情報などを障壁なく利用する権利C参政権の行使の実質的保障ーなどを盛り込むよう促している」とあります。しかし、日本の政治は本気で障害者を社会参加させようと考えているのでしょうか。
 現に男女平等といいつつも、国会議員の大半がいまだに男性で占められ、そのうえ健常者ばかり。そんな中で弱者を守る法を論議されているのですから…。パートの方々の立場が弱く、教育や福祉に関する予算が減らされる。現実には、特に弱者を保護するための法律が、社会の中ではほとんど機能していないのが現状ではないでしょうか。

 教師や選挙前の政治家たち、あるいは施設の職員さん方は「障害者の差別禁止」を簡単にお唱えになります。雇用に対する補助金を出したり、単なる施設訪問を実施することで、老人や障害児・者の社会参加と交流を果たしていると思っているように見受けられます。実際は、企業側が行政から補助金を受けとっても短期間しか雇用していないと聞きます。障害のある人で優秀な能力を持った人材を生かしていないのではないでしょうか。

 大学を含めた教育現場では、盛んに障害者施設での実習や研修が実施されています。ただ気になるのは、単位取得のためだけに取り組む人たちが多く見られます。自分の成績を気にするのではなく、純粋な気持ちで障害者と接してもらいたい、と強く思います。施設を訪問した児童や生徒たちが、施設とは「老人や障害児・者を隔離すべき場所」として、同情と固定観念を植え付けられるような気もします。将来、親兄弟を仕方なく施設へ入所させる「見本」としてしか映らないでしょう。

 けれども、施設とは、私たちが利用学ぶ場として選択する自由と、選択しない自由があると思います。本来は地域や家庭で学び、体の機能訓練ができることが理想だと思うからです。四月に施設を出て初めて一人暮らしをしている障害者が、自分でバス乗り場に向かい「雨にぬれてうれしかった」と振り返りました。施設では雨にぬれる経験がほとんどありません。彼は「たわいもない自由と不自由を確信できた」と話していました。

 十六年前、私も施設を出て、在宅障害者として雨や雪を身近に感じるという感動を味わい、施設という「宮殿」に帰りそびれました。現在は、自宅で地域の人々とともに過ごし、学習し続けている毎日です。でもそれは、不自由さもありますが、私にとって「ローマの休日」の舞台にいるような楽しい日々です。



個人能力を認める授業
2003/04/17 教育エッセイ 西日本新聞

今年も又入学の季節が巡って来ました。この季節になるといやでも耳にするのは、入学拒否と言う言葉です。三十年あまり前の世代背景の私には、入学通知さえもらえず十年間待ってやっと入れたのは、養護学校での特殊学級でした。その中では知的障害者の友が多く、私たち手足を使えない重度障害者と共に、それは賑やかで愉快な仲間達ばかりでした。そんななかで私の悩みは、授業時間が少ない事とテストが出来ないことでした。
そしてまた特殊学級の仲間みんなの悩みは、将来地元へ戻れず家族と暮らせないだろうと言う現実でした。あれから三十年私の仲間達は今も殆どが養護学校義務制度にすかれた
レールを終え施設生活を余儀なくおくってます。次のポエムはその頃の様子です。
『うち、よそんもんのごた』
「うち学校に行きたかった 普通の学校に行きたかった 学園でも学校に行けたけど 
廊下通学はおもしろうなか 天気の良か日も帽子かぶられん 雨の降っ日も長靴はかれん傘も買うてもらわれん そいばってん先生言うとった お前たちは幸せもんばい 
てんとうさんの照りつくっ日も 雨の降っ日も 雪の降っ日も ここにおったら勉強でくっ ばってん、やっぱい うち学校に行きたかった 普通の学校に姉ちゃんと 菊の花のついた 赤い弁当箱に 母さん作った卵焼きを入れて 姉ちゃんと 弟と 3人そろって 父ちゃん母ちゃん行って来ますって 三人そろって言いたかった
うち友達たくさんいたけど 近所の同級生 誰も知らん みんなうちのことを 不思議そうに見た 振り向いて見た うち よそんもんのごたー うち外国人のごたー うち立ちきらんばってん この町のもん うち歩ききらんばってん 普通の学校に行きたかった」私は養護学校の全てを否定するつもりはありません、テストさえ出来ない養護学校の「個人能力を認める授業」とは本来、普通校に有るべき理想の教育理念ではと確信してます。未来にさきがけ普通校が子供達一人一人のマイナス点を個性として生かせる、未来を願っている私です。


2003年4月1日 お元気ですかへの登校
ただ今未来に挑戦中

現在私は施設暮らし20年あまりを経て、在宅障害者として15年間、ただ今未来の福祉へ挑戦中です。小中学校や教育関係の場でこの十年あまりは、講演らしき活動をしていますから、私の重いハンディーを御存知の方も多いと思いますが、この原稿を書くのも、かろうじて動かせる片足でマウスを使い、突っ張る体全体と戦いながの作業は、冬でも汗だくと言う、なんとも重労働な障害を持ってますから、専門のお医者様に言われるのは、長生きしたいなら何もしないで、静かに寝ていなさいとの宣告を受け、早七年目、その間・ヨーロッパ三か国ツアーに一般参加をしたり、単独で付き添い二人連れのスウェーデン研修半月の旅を楽しんだり、また絵筆を口にくわえた画家などと騒がれては、未だに落書きを続けている、命がけの挑戦者の私です。このような私が西日本の紙面に出筆活動を出来ますことは、少しでも多くの人々が重度障害者の実体や想いを知っていただける事と感謝してます。そして今私が新に挑戦を挑み願ってるのは、今年度四月一日から始まった 介護保険から 障害者支援費制度と変った「 障害のある人の自立と社会参加を応援します」のスローガンを 実現しょうと、これまた命がけの今度は家族を巻き込んだ在宅での自立スケジュール計画をはじめました。世界では自立とは家族と離れ24時間サービスを受け家族とは別の住居を持つことが基本となってますが、過疎化が進む地方では、障害者と老人だけが残っている状態で、と言っても最近では障害者も介護サービスが整った都会へと自立の早道を選ぶ友も少なくありません。となると障害者も住めない町は、つまりは老人も住めない古里となることでしょう。それらを防ぐためにも、地域での障害者が一人暮らしや自宅での家族との共同生活も自由に選べる、どこの地域でも一定のサービスが受けられる、私なりの懸命な支援費によるスケジュールをくみ今年度四月一日から始めます。
今後の展開はいかなりますことか、またの機会に。


〒849−2201 佐賀県杵島郡北方町大字志久

多郎浦 和子

今回の私の海外旅行スウェーデン行きは、国際ソロプチミストの皆様方は元より、
佐賀県の皆様に買っていただいたアートカードの資金を旅費とさせていただき、
北欧ノーマライゼーション研修車椅子の旅へ、たんぽぽの家代表船津先生と、母の付き添いで長年の夢を果たせ、これも皆様のおしみないご支援のお陰と感謝しております。

 半月もの旅行でのアクシデントは、多くありましたが、やはり一番ショックだったのは、初日に飛行機から降りだったとたんに、荷物として預けていた車椅子が無惨にも他の荷物に押しつぶされ、タイヤが折れ曲がっていたことでした。

 寝たきりに近い障害の私にとって、他の車椅子はサイズの合わない靴以上に危険なものなのです。それでも空港の車椅子をおかりして、取り合えずは荷物紐でぐるぐる巻きにし四日間は 窮屈な格好で引き回しの刑でしたが、流石・福祉国家の航空会社、四日目には修理をしホテルまで届けて下さいました。

それにしましても、どこの空港でも車椅子専用の係りの方が付き添ってくださり、
有りがたかったのですが、私の様なダルマ状態の障害者は珍しかったらしく、
立つて車椅子を乗り換えて下さいと言われ、いささか驚きましたが・今や車椅子は少し歩きにくい人達も気軽に利用されているんだなーと、車椅子の社会参加が嬉しくもありましたが、逆に重い障害者の社会参加の後れを感じ、複雑な想いでした。

 福祉国家と言われているスウェーデンの町で地元の人々にまじり、歩き・又は船や
バス電車と、半月ほど動き回りました。設備的には我が国もそれほど変わりはないと、いや日本のほうが、設備的には過剰すぎるのではと思えました。障害者が特別視されてなく、バスに電車の中とあらゆる場で、乳母車や若者の自転車と違和感なく車椅子の場所が共有してて、電車の中では乳母車の坊やと同じ視線でつい、イナイイナイバーとあやしては、若いママさんらと言葉の壁を越えた交流を楽しんだりでき、最高でした。   
こと有る毎にまさにこれがノーマライゼーションの旅ではと、実感てきる旅でした。

これら全ての経験は、私の一生の財産となる事でしょう・皆様には、
このような素晴らしい旅の実現をご支援くださり、本当に感謝します

多郎浦和子
2001年9月24日


甘くち辛くち 「当たり前」の関係を

掲載日2001年05月03日 <自>写有


〈「当たり前」の関係を〉 井手美保子(小城町)

一九九四年、多郎浦和子さんと四泊五日の旅をした(「甘くち辛くち」愛読の方は多郎浦和子さんをご存じでしょう)。それは「全国同和教育研究大会」への旅。私は、会での学習への参加と、レポーターである和子さんの介助も兼ねていた。
脳性まひの和子さんは、小さいときから手足が動かない。トイレ、着替え、食事、お化粧…どれもこれも私は和子さんに教わりながらの五日間であった。自分にとって貴重で感動的な経験であったと同時に、この年になるまで何も知らない自分がふがいなかったし、和子さんに申し訳なかった。経験(出会い)がないということが見える世界を狭くしていた。
今、社会の認識が少しずつ変わり、ノーマライゼーション、バリアフリーなどという言葉とともに行政の取り組み、人の動きが見え始めてきた。本来私たちは、ハンディキャップを通してこのように世話し世話される関係で出会うのではなく、もっと小さいときから地域や学校という日常生活の中で、「当たり前」のこととして出会い、関係を作っていくべきだと思う。
期せずして和子さんと私は同い年である。和子さんは、きょうだいと同じ学校に通うつもりでいたがその年になっても役場から入学通知は来ず、十歳にして親元を離れて施設に入ることになったという。
多久町に船津静哉さん代表の「たんぽぽの家」という「障がい者」との交流施設がある。「多くの人と出会いたい」「施設を充実させたい」という願いのもと、二年前からここでチャリティーコンサートを行っている。全くの素人の手作りのコンサートであるが、この二回多くの人の支えと出会いがあった。そして今年も六月十七日(十六日前夜祭)三回目を開催する。ただ今、出演者およびスタッフを募集中。
さまざまな人との自然な出会いを楽しみながら、真の共生社会をみんなで考えていけたらと思う。たくさんの人に来てほしい。
問い合わせは電話090・9072・5068、井手まで。

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いで・みほこ 小学校教諭。人権、平和、男女平等教育に力を入れ、講演会、人権コンサートの企画などさまざまな活動を続けている。「両性の自立と平等を目指す教育推進委員会」の会長も務める。1957年生まれ。


甘くち辛くち 一年の感謝を込めて

掲載日2001年

多郎浦和子

早くも、甘口辛口の原稿も一年契約の最終を迎え、この一年私が問いかけて来た内容を再確認したいと思います。二回目に書いた「障害者の共生教育を望む」は、意外にも様々な論争が飛び交わされ、障害児教育の遅れを浮き彫りに出来たようです。去年の暮れ頃でしたか、三十八年ぶりに文部省が、「障害児の就学基準緩和」を発表されたにも関わらず、今まで普通校に通えた障害児達も、佐賀では新たに建設された幾つかの養護学校へ何らかの理由で否応なく回される事でしょう、又それらに平行し、平均点の低い健常児もターゲットとなりかねないのです、それらの子供達の将来は殆どが温室育ちとして一生を終えなけばなりません。負担が全て家族が背負うのではなく、第三回の中にも書いた・障害者も作られた平和に閉じこもるのでなく、自ら納得ゆく医療や共に学べ合える統合教育を求め・行かなければ、与える側と与えられる側の真のコミニュティーは出来ないでしょう。今盛んに学生ボランティア義務制度が叫ばれてますが、老人や障害者さらには幼児までも施設で管理され地域から切り離されている現状では、学生ボランティア義務制度は単なる施設への人材派遣だけの便利屋となり、知らず知らずと事務的感覚だけをマスターし、弱い者・自分より劣った者は管理するものだと、誤った固定観念を持たせるのではと心配します。今・現代っ子が学ばなければいけないのは、弟一回目の文面にも書きました様に{出会いのきっかけとしてのボランティア精神には同情心も不可欠]と書きましたが、子供達がボランティアを学ぶ基本として不可欠なのは、無償のボランティア精神ではないでしょうか。あくまでも与えられた価値観ではなく、自ら行動し自ら学び豊かな個性と感性を習得できる社会環境の基盤作りなのです。自由は危険を伴い、責任は権限を伴なおうとも、本来人は自由意思を追い求め、それぞれの個性が輝くものだと思います。この一年・障害者の視点から時には甘く又辛く書かせていただき感謝します、また拙い私の文を事あるごとに暖かい励ましの言葉をかけてもらい本当に有り難う御座いました。


甘くち辛くち 2000年の大掃除

掲載日2000年12月08日 <自>写有

〈2000年の大掃除〉

多郎浦和子(北方町)

今年も師走の月とは、月日のサイクルを早く感じるのは年齢のせいでしょうか。二〇〇〇年の今年はなんと騒がしい一年だったことか、私にとって社会的にも個人的にも多くの変化がありました。先ごろ行われたシドニーでのパラリンピックは初の全面中継がされたり、三十八年ぶりに文部省が、「障害児の就学基準緩和」を発表したりしました。

そしてまた私個人的には、インターネットでホームページを開き、毎夜マイクを使い、日本をいかにして元気付けようかなどという、国際会議なるものに参加している何かと忙しい今日このごろです。

そんな私が今痛切に願うことは、与えられた価値観ではなく、自ら行動し自ら学び豊かな個性と感性を習得できる社会環境の基盤作りです。今私がかかわっているインターネットグループの代表、米国在住の越山雅代さんの講演会に佐賀市長ご夫婦も参加されました。越山さんから「障害者に励ましの言葉をかけるのではなく、共に頑張ろうの言葉を掛け合いましょう」と、お若い市長さんへ期待の言葉が掛けられ、熱気あふれる講演会でした。

佐賀もこのような柔軟な若い市長さんがいらっしゃることを知り、うれしく思えました。そしてまた、越山さんと関係するインターネット上(http://tanpopokazu.oneworldonline.net/)で、私のかいた絵を世界中の人に人気投票していただきました。十二枚を選び出し、インターネットの仲間たちがたんぽぽの家の資金にと今、世界に売りまくってくれています。

インターネットでこんなすてきな仲間が作れるとは。世界的に物質文明から二十一世紀に向かう今、日本人の心の大掃除をする新年が来ているようです。それらを確信するかのように、先日佐賀大学祭へ講演に招かれた時のこと、ラジオ、テレビ、新聞社が告知されたので、ここが大学の一角とは信じられないような中年の昔学生さんが大勢集まってくれました。それでも報道関係者のおかげで多くの出会いができ、楽しい大学祭でした。

来年あたりから、月に一度ほどは大学内を電動車いすで散歩でもして、学生さんたちにナンパされたいと張り切ってます。それまでに大学の身障者トイレの切れたヒューズが直っていることを、私も昔学生代表者として、二十一世紀への願いとしたいと思います。

掲載日2000年11月26日[社会]障害者と共生できる社会を

〈障害者と共生できる社会を〉

障害を抱えながら、絵画や詩の創作活動を続けている多郎浦和子さん(43)=杵島郡北方町=の講演会が二十五日、佐賀市の佐賀大全学教育センターであった。「共生」へのメッセージを込めた歌を交え、障害者が自立して生活できる地域社会づくりを訴えた。

講演会は大学祭の一環で、文化教育学部の森善宣助教授らが企画した。

多郎浦さんは障害者が地域にも自宅にも居場所がなく、施設に入っていく状況を説 明。「障害があっても?普通?であり、隔離せずに自分らしく生きられる社会にしなければ」と呼び掛けた。

講演会は二十六日も午後二時から同会場で開く。(大隈)

掲載日2000年11月24日[地方]共生社会目指し多郎浦さん講演

〈共生社会目指し多郎浦さん講演〉

北方町佐賀市 障害者も共生できる社会づくりを提唱する多郎浦和子さん(43)=北方町=が二十五、二十六の両日、佐賀大学全学教育センターで「多郎浦和子、共生教育を語る」と題して講演する。両日同大で行われる大学祭の一環で、入場無料。

多郎浦さんは先天性脳性まひという重度の障害を負いながらも、絵画や詩、エッセーの制作に積極的に取り組んでいる。講演では、自身の経験を踏まえながら、地域から隔離されがちな障害者が、地域でも自立できる環境づくりを呼びかける。
両日とも午後二時開演。

二千年十一月 佐賀西部ベンチャークラブ  原稿

ただ今冒険中

私は車椅子がなければ、殆ど寝たきり状態のハンディを持つ者です。
 そんな私は以外にも冒険大好き人間で、「出来るか出来ないかは、やってみなければ気がすまない」と言う、自分でも直しようがない困った性格の私です。
 けれど「好きこそ物の上手なれ」と在るようにやりたいこと・したいことを何とか、やりこなせるのは工夫や努力はもとより、固定観念の切り替えが、私の人生を変えたのは言うまでもありません。
 例えば 手の代わりに足で車椅子を後ろ向きで進み、スプーンを口にくわえ皿を回し食事をする事など、多分普通の人には、実際に見なければ完全に理解できないでしょう。
 けれどよく誤解されますが、これらの事は私が障害者だから、けなげにやってきたのではなく、自分で行動すること・可能性にチャレンジするのが好きなだけなのです。
 このような私が今夢中になっているのは、僅かに動かせる片足でマウスを操作し、毎夜 インターネットで世界中の人々とマイクを通し情報交換できる インターネットです。
 このような楽しいグループへ参加させてもらい、米国在住の越山雅代さんから、長年の夢だった自分のホームページをいただき、今その中で自分の絵をホームページにのせ、投票してもらい、人気の良い絵は募金活動として、私が関わっている障害者・児の自立支援センター「たんぽぽの家」の活動費へと言う目標を目指していま奮闘中です。
もし興味のある方がいらしたら、私のホームページ http://tanpopokazu.oneworldonline.net をのぞいて見てください。

   

私にとっての輸送サービス

十月福祉の家輸送サービス原稿

 在宅障害者の私にとって輸送サービスは、今では欠かす事の出来ない自由の翼として、現在三軒の輸送サービスを利用させていただいています。輸送サービス利用者として回数は少ない私ですが、輸送サービスと聞けば会員に入ってしまう理由は、やはり障害者が移動する曜日や日程が、ほぼ同じになりラッシュアワー状態でどうしても、急な対応が難くなるからです。そんな時何時も突発的な私の一生に一度の無理をなんとか、都合を付けてくださる「ふくしの家」の皆さんへ、この場をかりてお礼申し上げます。

 それにしましても、車椅子の仲間五・六人で町へ出たい時などは、佐賀は輸送サービス・福祉サービス・意識などまだまだ不足しているナーと、感じる今日この頃。

 今年も建設省から佐賀の町ウォチングで、整備された町の中を電動車椅子でルンルン気分で点検し終えた時、市外に住む私は思わず「みんなでバスハイジャックでもして毎日佐賀んまちウォチングへ来たいね」と言っては、皆から笑われてしまいましたが、リフト付きバスは佐賀を何時になれば、当然の様に走り電動車椅子や松葉杖の人たちを見かけられる様になるのやら。最近他県から来られる方々の感想に「佐賀の町は老人は見かけるけども、障害者障害児らの姿を見かけないのが不思議です」と口をそろえて尋ねられては、何と答えてよいか、佐賀の障害者として恥ずかしいやら、悔しいやらで、けれど佐賀はきっとこれからと信じて、先ずは輸送サービスの皆さんのお力を突破口とさせていただき、障害者の心にくすぶる自由と言う翼を羽ばたかせて下さい、どうか今後とも宜しくお願いします。

二千年夏の できごと

多郎浦和子

 猛暑続きの夏も終わり、ひと夏の出来事を誰もが想い更ける今日この頃・今年の夏私は、暑さにもめげずいろんな催しへと参加し、様々な人と知り合い視野が四十五度ばかり広がったような、・・まず初体験に挑戦したのは大したことはない、科学館でのフリーマーケットへと一日参加した事・しかし八月六日の青空の下はテントが無ければ車椅子だけ残し蒸発していたことでしょう。ゴミ問題もありリサイクル大好き人間、フリーマと聞けば山の如く買ってしまう私が、売り手になった感想は、モウカリマセンナーの・合い言葉で励ましあえたテント仲間の若者や親子連れとの触れ合いが、私には最高でした。「人は他者との関係において喜びを共に感じ無ければ人は生き甲斐を得る事が出来ない」と言う心理学の言葉通りだと痛感しました。また子供達が夏休みに入ったばかりの日のこと、障害児の家族の集いに参加させていただき私が感動させられたのは、重度障害児の子供さんを我が子と言えども、二十四時間ありのままを受け入れ・まるで草花を育むかの様に子育てしていらしゃる家族の方々に感激するばかりでした。その集いの中に一人交通事故で片足義足の女の子が明るく皆のお世話をしていました。彼女は「不便な普通学校よりも心安らぐ養護学校が良いよ」と無邪気に言う、けれど現在養護学校卒の彼女の将来は作業所待ちだそうです。たかが片足が無いくらいで、就職や進学の選択権を無意識的に狭めてしまうと言う、日本の教育は一体何処まで弱い者を切り捨てて行くのか、なぜ子供達の有るがままを受け入れ様とはしないのでしょうか、いくら設備の整った養護学校が増えようとも、分けられた世界で育てられた子供達は互いを受け入れる記憶が無いままに育つ事でしょう、現代っ子は他者と居る事が苦手になったと聞ききます。部屋に閉じこもりがちだった高三の甥が、この夏・重度障害児のボランティアに参加し、「人って生きているだけでも凄い事なんやね」などと嬉しいFAXをくれた彼を誇らしく思うのは、叔母バカのせいでしょうか。

甘くち辛くち 神の奇跡ではなく

掲載日2000年08月04日 <自>写有

〈神の奇跡ではなく〉  多郎浦和子(北方町)

 先日、知人が平和行進に参加したので、電動車いすで参加できないものかと応援を兼ねて行ったところ、休日も手伝ってか小学生の親子も参加されておられ、平和のありがたさを感じた一日でした。このリレー平和行進は世界でも唯一被爆国として日本人
一人ひとりが行動することで核兵器廃絶の意識を高めるため、四十二年前から訴え続けられているそうです。
 来年こそは私も電動車いすで一駅ぐらいは挑戦してみようかなどと、平和だからこそやれそうな可能性にパラリンピックの選手のように夢ふくらませています。「人はパンのみに生きるのではなく」の言葉通り、神からの贈り物ハンディキャップをバネとし、健常者と共に揺るぎない平和行進を進み歩けたらと思っています。
 これからは障害者も作られた平和に閉じこもるのではなく、自ら納得ゆく医療や共に学べ合える統合教育を求めていくことが必要となるでしょう。神の奇跡ではなく、あるがまま認め合い、互いに許し合いの精神と、いたわりの人間性が復活することを願わずにはおられません。
 また一カ月ほど前、遠方の親せきに不幸がありました。在宅障害者である私は緊急に役場の友達の計らいで一泊、近くの老人ホームへお世話になりました。その時のこと、手厚い看護を受けられる中でも、やはりお年寄りの楽しみは、家族や友人との面会や年に二回の帰宅が一番の望みであることを知らされました。
 「今年の盆は子どもたちが帰ってこんけん」とか、「初盆で家のもんが忙しかけん、b家に帰られんたい」とか、奥さんを毎日待っておられるおじいさんに「なんでホームにおると? 車いすも上手に使えるのに!」と尋ねると、「家じゃ車いすの使いにっかもんの」と、何ともこれが福祉国家日本の悲しい現実なのでしょうか。
 実は私も障害者施設でもまったく同じ経験をしました。今やっと十年ほどの在宅者として生活をし、地域での存在感と家の居場所が作られましたが、今もなお施設に長期間おられる障害者は、わが家に居場所がなくなり、盆正月さえ帰りたくても戻れないという悲しい現象が起きています。それゆえに地元であまり障害者を見かけないのも当然なことなのでしょう。これが日本の平和ならば、私一人でもより多くの人々の心に問いかけようと思います。本当の意味でのバリアフリーを!

たろうら・かずこ 先天性の脳性麻痺で首だけがかろうじて自分の意思で動かせる。多久市のたんぽぽ家、多久市美術協会所属。特製のワープロを使って詩やエッセイを書くほか、筆を口に加えての色紙絵を描く。42歳

障害者の共生教育を望む

掲載日2000年07月12日 <自>

〈障害者の共生教育を望む〉 北方町 多郎浦和子

 私は養護学校卒の重度障害者です。この原稿もわずかに利く片足でマウスを操作し、インターネットを楽しみ、唯一の情報源として活用しています。これはすべて養護学校で手厚い教育を受けたからだと言われそうですが、実は入学通知が来ないまま十一歳まで養護学校にも行けず、その間、私の教師は両親の愛情であり、姉妹の思いやりや、隣近所のかかわりすべてが、私の生きた教室でした。
 その間、少々おせっかいすぎるチャレンジ精神を、植え付けられたのではと思っています。もし私が家族や地域から切り離され、施設で〇歳教育をマンツーマンで受けていれば、担当の先生の力量のなすがまま、受け身の人生になっていたかも。現に私と同じ重度障害者または私よりも軽度の障害者たちは、養護学校から各施設へ回されたままです。
 開かれた学校や施設として、さまざまな社会との交流の場も増えているとはいえ、学習内容は障害によってランク付けがあり、自宅から通いたいと望んでも選択はできない壁が、まだ多くあることを証明しているのではないでしょうか。
 今地域での介護サービスが盛んになりつつあります。もし佐賀県がだれもが住みたい県になれるのなら、障害児を持つ親御さんの負担を配慮し、通学ヘルパーや授業中のヘルプ派遣を実現し、共生教育がなされることにより、普通校にもゆとりをもたらすのではないでしょうか。(四十三歳)

地域に根付いた助け合い精神を

掲載日2000年06月29日 <自>

〈地域に根付いた助け合い精神を〉  北方町 多郎浦和子

 六月二十二日付の「お答えします」にご丁寧な解答ありがとうございました。現在養護学校は四校あるとのことですが、全国的にみましても、あまりに少なすぎることは十分にわかります。
 これまで地域の学校に通いたいと願いながら、遠く離れた養護学校への通学を強いられている本人や保護者の要望はかなわず、妥協案の養護学校設置だけがかなうことが残念でなりません。
 今、地域との共生教育が全国的に指導されています。地域の学校で共に支え合い友達の関係の中で、自立を目指す子どもたちや多くの仲間たちがいます。今回のように教育委員会や保護者の意見で決定するのでなく、私たちのような当事者の意見も聞いて参考にしていただければ幸いです。
 私の両親も同じでしたが、障害を持つ親は養護学校への肩たたきを受け入れることしか選択権がなく、世間に遠慮しつつ養護学校へと通わせなければなりませんでした。
 障害に応じて適切な教育とは私たちにとっては、兄弟と共に通える地域に根付いた教育であり、そうした中での助け合いの精神こそが社会全体のバランスを保つかぎと言えるのではないでしょうか。(四十三歳)

養護学校をなぜ増やす?

掲載日2000年06月16日 <自>

〈養護学校をなぜ増やす?〉 佐賀市 坂本藤江
 先日NHKで絵の個展をされた多郎浦和子さん。障害があってもすてきな笑顔の方でした。また絵も絵の具ではなく自然の物で心温まるものを描いてありました。
 清らかな心の多郎浦さんの「甘くち辛くち」(五日付)を読んで「どうして」「なんで」という思いがあります。最後の方に「なぜか佐賀県だけが今度養護学校を増やすとのこと。他県では共学が進んでいるのに」と書いてありました。
 なぜ佐賀県だけが昔に戻り健常者と障害者を分けるのでしょう。今ノーマライゼーションやバリアフリーをいわれてます。環境や設備だけでなく、心のバリアフリーも大事です。なのになぜ養護学校なんでしょう。
 知事さんは「住みたい県日本一」を目標にされています。健常者と障害者を分けるのではなく、佐賀に住んでいる人みんなが「住みたい県」にしてほしいと思います。
(四十八歳)

甘くち辛くち 真実の同情心とは…

掲載日2000年06月05日 <自>写有

〈真実の同情心とは…〉
多郎浦和子(北方町)

 若いころの私は、同情されることが一番嫌いでした。特に生まれつき、手足が利かないダルマ状態で、車いす生活の私の姿はまさに同情心をそそる存在だったからです。
 「かわいそうにこんなにかわいいのにねェ」などと言われるたびに自分のありのままの存在を否定されているように思え、子ども心に悲しい思い出としての記憶があります。今でも同情という言葉は、好きではありませんが、出会いのきっかけとしてのボランティア精神には同情心も不可欠ではと思えます。
 特に最近たんぽぽの家の活動として、小学校や中学校へ呼ばれる機会や福祉専門の学生さんらと接することが多くなったこともあり、考えさせられることがたくさんあります。
 その一つとして今の子どもたちや若者たちの人と人とのかかわり方に欠けているのは、やはり他人に対する思いやり、同情心ではないかと思います。相手の身になって他人の痛みを思いやれなくなっていて、人間に本来最も大切な感情が薄れ、無気力・
無感動・無関心になってしまっています。
 いじめ、ないしは不登校の原因となっている根元には、生産性主義のものさしで、人の優劣をはかり続けたことがあると思います。その誤差が、現代社会のゆがみとなっているのでしょう。
 具体的には車いす生活の私が、小中学校の人権集会やさまざまな催しの講師として、活躍できるのは、皮肉にも幼いころから障害者と健常者が、分けられ互いを知らず、健常者は車いすの扱い方が分からず障害者は団結心を知らなくて育ったからです。だから私のような出しゃばり障害者がお役に立てるのです。
 本当は私よりも社会に必要な人材が養護学校や施設に同情されながら暮らしています。なぜか佐賀県だけが今度養護学校を増やすとのこと、他県では共学が進んでいるというのにです。
 真実の同情心とはなんでしょうか。相手の気持ちを十分知らなければ同情心は自己満足に終わり、真心のない贈り物になってしまうことでしょう。
 介護保険が導入される現代だからこそ、求める側のものさしに合った無駄のない同情をかけてほしいと願います。

たろうら・かずこ
先天性の脳性麻痺で首だけがかろうじて自分の意思で動かせる。多久市のたんぽぽ家、多久市美術協会所属。特製のワープロを使って詩やエッセイを書くほか、筆を口に加えての色紙絵を描く。42歳。

個性的な作品自由展に40点

掲載日2000年05月31日 <自>写有

〈個性的な作品自由展に40点〉

 多久市 多久市美術協会デザイン部(山脇好博部長)の第一回総合美術展「自由展」が三十日、同市中央公民館で始まった。デザイン、絵画、工芸、写真の四部門に、市外からの賛助出品を合わせ約四十点を展示。個性あふれた作品が目を引いている。六月三日まで。=写真
 仲間づくりと親ぼくを兼ねて開催。「自由展」と銘打ったように、部員の作品はもちろん、賛助出品もバラエティーに富む。天山を描き続ける画家小野天山さん(牛津町)のオブジェ、障害を抱える多郎浦和子さん(北方町)の絵など、見ごたえ十分の力作が並んでいる。

バリアフリー化を点検

掲載日2000年05月26日 <自>写有

〈バリアフリー化を点検〉

 佐賀市 佐賀市が整備を進めていたJR佐賀駅北側の旧スポーツセンター通りのバリアフリー化工事が完了、二十五日、福祉団体や市職員など四十三人が歩きながら点検をした。
 工事が完成したのは警察通りから第一栄城ホテルまでの約四百b。歩道の幅員を広くとり、車道の段差を二a内に収め、側溝のふたの穴は車いすの車輪が落ち込まないようにした。
 点検に車いすで参加した北方町の多郎浦和子さんは「まだ駅周辺の一部の改良に過ぎない。早く整備を進めてほしい」と話した。 点検結果は代表者会議で報告し、今後の工事に生かす。
 市は平成十六年度までに佐賀駅周辺の市道延長五`を整備する予定。六月から第一栄城ホテルから国道264号までの三百bの整備にかかる。(栗林)

私が選んだ週間ニュース5 井手裕子さん

掲載日2000年05月14日 <自>写有

3 多久市多久町にある障害者と健常者の交流施設「たんぽぽの家」で二十日午後二時から、「ノーマライゼーションを超えて」をテーマに、初の二十四時間チャリティーコンサートがある。
 以前に、この施設を利用されている多郎浦和子さんや、スタッフの船津先生とお会いする機会があったが、お二人の話を聞いて、私の「障害」者に対する考え方は、大きく変えられた。福祉先進国においては、多郎浦さんのような生活を送られている方が大勢いる。日本も早く「障害」者にとっても住みやすい国になればいいと思う。

「甘くち辛くち」執筆者一新

掲載日2000年05月04日 <自>写有

▽多郎浦和子(たろうら・かずこ)北方町

先天性の脳性麻痺で首だけがかろうじて自分の意思で動かせる。多久市のたんぽぽの家、多久市美術協会所属。特製のワープロを使って詩やエッセイを書く。筆を口にくわえての色紙絵を描く。42歳。

手鏡 露草の汁

掲載日2000年04月24日 <自>

〈露草の汁〉
大坪啓子

 絵もいい、書もいい、写真もいい。自分では、からっきし駄目だけど観(み)るのは好きなので、個展や作品展によく足を運ぶ。どの作品も作者の思いが伝わってきて、心がほんわかと温かくなる。そのうえ、帰りには感動というすばらしいおまけがつく。
 きょうもそうだった。北方の多郎浦和子さんの二回目の個展がNHK佐賀の「アズ・スペース」で開かれた。脳性マヒで身体の自由がほとんど利かず、絵筆をくわえて水彩画の創作に取り組んでおられる彼女の、一回目の個展を見損なっていたので楽しみに待っていた。
 今回の作品は、タマネギ、露草、ホウレンソウ、紅梅などさまざまな草木の汁を絵の具にして描き、どれもほのぼのとした作品ばかりだった。明るく前向きに生きておられる人柄が伝わってくる。その温かさと素朴さに、落ち込んでいた私はジーンときて、涙がにじんだ。
 それを彼女は見逃さなかった。すごいと思い、「すばらしい」と言った私に、「ありがとう、ありがとう」と言ってこたえられ、私は逆に励まされた。それはまるで、あるはずのない彼女の両腕に抱き締められているような思いだった。
 「すばらしい」というたった五つの文字でしか表せないのが残念だ。視覚では五文字だけだけど、何十倍もの文字となって心の中に広がった。「いろいろな人と出会い、多くの人が励ましてくれた」とも言われた。
 多郎浦さん、私はあなたに出会い、頑張りのエネルギーをもらいました。ありがとう。(川副町波佐古)

多郎浦さん2年ぶり個展、和紙絵20点

掲載日2000年03月29日 <自>写有

〈多郎浦さん2年ぶり個展、和紙絵20点〉
 北方町 脳性まひの障害のため手足が不自由で、口に筆をくわえて色紙絵を描いている北方町の多郎浦和子さん(42)が、四月四日から佐賀市のNHKアズ・スペースで二年ぶりの絵画展を開く。今回は、新たに草木の汁などを絵の具に、和紙に描いた優しい風合いの新作約二十点を出品する。十三日まで。
 多郎浦さんは重い障害を持ち、かろうじて自分の意思で動かせる首の動きを使って色紙絵を描いている。前回の初個展では、六年間かけてかきためた作品を出展。多くの来場者があったほか、小中学校などから講演の依頼が舞い込むなど大きな反響を呼んだ。
 だが、そうした周囲の反応に、多郎浦さんは「画家でもないのに騒がれすぎ」と描く意欲を失った時期があったという。そんな時、ツユクサの汁を採ってきて「これでかいてみたら」という母ヨシ子さん(69)の勧めをきっかけに、草木の汁を絵の具にして再び描き始めた。
 絵の具になるのは、草木染めにも使われるクチナシや玉ネギの皮など。カトリック信者でもある多郎浦さんが描くマリア像や神父、優しくほほ笑む太陽の絵などに、竹炭の木酢液の青みがかった灰色や紅梅漬のピンク色が温かみを添える。
 多郎浦さんは、「前回の個展で多くの人が応援してくれていることが分かった。首の痛みも忘れて描いた今回の新作をぜひ見てほしい」と話している。(藤崎)

障害者、地域で支援

掲載日1999年11月14日 <自>写有

〈障害者、地域で支援〉

 佐教組などでつくる民主教育をすすめる県民会議(会長・納富一郎佐賀大教授)が主催する「障がい児・者とともに」シンポジウムが十三日、佐賀市の県教育会館であり、障害者を取り巻く生活環境や将来について話し合った。
 シンポジウムには多久東部小学校教諭で同市の障害者支援施設「たんぽぽの家」を主宰する船津静哉さん(41)や、車いすで生活する杵島郡北方町の多郎浦和子さん(42)、身体障害者の娘を持つ佐賀郡大和町の真崎淳子さん(42)がパネリストとして加わり、意見を交換した。
 多郎浦さんは自分の体験をもとに「施設の生活だけで終わらず、健常者と一緒に地域で生きていきたい」と発言。真崎さんも「養護学校へ行くことを進められても、親が勇気を持って普通学級での就学を主張すれば、周りの考え方も変わるはず」とし、障害児(者)を施設や家族だけでなく地域全体で支えていく社会の実現を強く訴えた。
(澤登)

障害者との共生考えよう

掲載日1999年11月12日 <自>

〈障害者との共生考えよう〉

 障害者(児)との共学や共生を考えるシンポジウムが13日、佐賀市の県教育会館で開かれる。入場は無料。
 佐教組などでつくる民主教育をすすめる県民会議(会長・納富一郎佐賀大教授)が、健常者と同じように障害者も地域や学校で生活するための方策を探ろうと、毎年開いている。
 シンポでは、障害者の就職実態など県内の現状を紹介。教師の船津静哉さん(多久東部小)、障害者の多郎浦和子さん(たんぽぽの家所属)、障害者の母親真崎淳子さん(佐賀市)がそれぞれの立場から意見を出し合う。
 当日は午前10時に開会。シンポの前には人権バンド「TANPOPO」のミニライブもある。問い合わせは佐教組、電話0952(31)7161へ。

人権コンサート感動

掲載日1999年09月05日 <自>写有

〈人権コンサート感動〉

 多久市 多久市の多久東部中で三日、「人権コンサート」があった。障害児教育に取り組む多久東部小の船津静哉教諭らが心温まる音楽を披露しながら、「みんなで支え合う優しい心を持ってほしい」と呼び掛けた。
 一人ひとりの人権について考えてみようと、初めて企画。小・中連携教育の一つとして、東部中の生徒二百六十人のほか、納所小、東部小の五、六年生約百四十人も参加した。
 船津教諭は、障害者と健常者が共生するための支援活動拠点「たんぽぽの家」の建設に奔走してきた一人。この日は、開設時から汗を流し合ってきた多久市役所の岸川隆さん、障害を抱えながらも積極的に社会に参加し、たんぽぽの家で活動を続ける多郎浦和子さんとともに出演し、多郎浦さんが作詞した「美しき生」など五曲を歌った。
 曲の合間には、多郎浦さんが「みんなと同じように強く生きたい。そんな思いを込めて作った」と作詞の思いを語り、子どもたちも感動を覚えた様子だった。

私が選んだ週間ニュース5  黒岩彰さん

掲載日1998年09月06日 <自>写有

-〈筆くわえて描く〉
 脳性まひで車いす生活をする杵島郡北方町の多郎浦和子さん(40)が、二日から佐賀市のNHK佐賀放送局で、初めての色紙絵の個展を開く。手足が不自由で口に絵筆をくわえて、唯一自由が利く首の筋力で描く力強いタッチの絵に、詩を書き添えている。
 六年間に創作した百点以上からよりすぐった十六点を展示する。色紙絵は六年前に始め、一つの作品を丸二日かかって仕上げる。個展は十六日まで。(30日24面)

脳性まひの多郎浦さん初個展

掲載日1998年08月30日 <自>写有

〈脳性まひの多郎浦さん初個展〉

 脳性まひの障害を持つ杵島郡北方町の多郎浦和子さん(40)が9月2日から、佐賀市のNHK佐賀放送局アズ・スペースで初めての個展を開く。手足が不自由で口先に筆をくわえ、唯一自由がきく首の筋力で描く力強いタッチの絵に、詩を書き添える。6
年間に創作した100点以上からよりすぐった16点を展示。多くの人たちとの出会いを待つ。
 多郎浦さんは先天性脳性まひで、車いすの生活を送る重い障害を持ち、かろうじて首だけが自分の意思で動かせる。約二十年前から当時珍しかったワープロを、口にくわえたペンで操作し、作詩や佐賀新聞でコラムを連載するなど自分≠表現してきた。
 色紙絵は、自費出版の詩集が縁で知り合った多久市美協会長で人形師の倉富博美さん(47)=多久市=の強い勧めで、六年前から始めた。
 台に固定した色紙に、筆をくわえて向かう独自の創作スタイル。パレットと水差し、色紙との間を何度も何度も行き来、首を上下左右に動かしながら描く。一つの作品に丸二日間、一日十時間以上向かい合う。
 流れ落ちる絵の具を何度も塗り重ねるうちに、色紙に穴が空きそうになることもしばしば。傍らで見守る母ヨシ子さん(67)は「描く時の集中力はものすごい」。
 作品は、野の草花や風景画が多いが、最近の題材はヒスイなどの宝石や岩石。石炭の塊を炭坑夫だった父親の顔に見立てて描いた作品には「石炭ほり進む父のよこがお黒光り」と詩を添えた。
 また、今年五月の欧州旅行でフランスのベルサイユ宮殿で拾った小石を描き、楽しかった旅行の思い出を込めた。
 作品展を企画した倉富さんは「彼女にしか描けない表情豊かな絵と、心ひかれる詩が魅力」と語る。
「絵と詩による―多郎浦和子作品展」は十六日まで。入場無料。(藤崎)

多久市美協絵画部展

掲載日1997年08月13日 <自>写有

〈多久市美協絵画部展〉

 多久市 多久市美術協会(倉富博美会長)の絵画部展が十七日まで、同市郷土資料館で開かれている。会員の力作十六点が、訪れた人の目を引いている。=写真
 絵画など六部門で組織する同協会の長期展示会で、今回が三回目の部門展。二度の県展知事賞受賞者の牛丸和人さん(多久町)は油絵「吟遊詩人」、天山画家として名高い小野正人さん(牛津町)は同「桜島」を出品。多郎浦和子さん(北方町)の水彩「心登山」は露草の花びらの汁で色付けしている。

東西南北

掲載日1996年11月02日 <自>写有

□文化祭に父母ら出品

 多久市 多久市の西渓中(宗俊朗校長)の第三十一回文化祭が一日、同校で行われ、今回は初めて職員、父母ら大人の作品も展示された。
 同校が地域へ学校を開放し、生徒と職員、父母らとの交流をもっと深めようと実施した。会場には「佐賀漫画集団」代表の宗校長作の職員の似顔絵、手足が不自由で口先で筆をとる北方町の多郎浦和子さんの風景画、同市美術協会工芸部の倉富博美部長の郷土人形などが並んだ。
 また、多久市と友好都市の中国曲阜市の小・中学校から寄せられた墨絵、宮沢賢治の特集コーナも、生徒や訪れた人たちの注目を集めていた。

ソロプチ佐賀西部が3人2団体表彰

掲載日1996年03月24日 <自>

多郎浦さんら3人2団体表彰  ソロプチ佐賀西部

 武雄市 国際ソロプチミスト佐賀西部(前田栄子会長、三十五人)はこのほど、女性の地位向上や地域奉仕活動、社会貢献に尽力している個人三人と二団体を表彰した。
 特に今回は、車いす生活の障害一級者にもかかわらず障害者カウンセリング資格を目指す北方町、多郎浦和子さん(38)へ訓練賞を贈り激励。奉仕団体をたたえる女性ボランティア賞には、二十年近い活動実績を持つ武雄手話の会(山口孝子代表)を選ん
だ。そのほかの表彰は次の通り。
 青年市民賞=田代ひとみ(武雄青陵高三年)▽社会貢献賞=医療法人友朋会、中川保孝理事長▽青少年ボランティア賞=武雄青陵高ボランティア同好会

リハビリ体験談入賞者決まる

掲載日1995年12月26日 <自>

 県と県寝たきりゼロ推進本部が主催する「あなたとわたしのリハビリ日記」コンクールで、有田町の黒川みちよさん(54)が最優秀賞を受賞した。
 「寝たきり予防推進事業」の一環として初めて実施、県全域から四十一点の応募があった。年度中に全応募作品を掲載した「体験談集」をつくり、関係機関に配布する。表彰式は来年二月四日、佐賀市文化会館で開く「寝たきり防止シンポジウム」で
行われる。
他の入賞者は次の通り(敬称略)。
優秀賞 木下定洋(鹿島市)永渕芳郎(佐賀市)▽入選 多郎浦和子(北方町)林快川(久保田町)湯木野敬士(佐賀市)水頭連平(鹿島市)

神埼ボランティア音楽祭開く

掲載日1995年09月04日 <自>

〈神埼ボランティア音楽祭開く〉
 神埼町 佐賀市のボランティアグループ「風ファミリー」は三日、神埼町中央公民館で、「神埼ボランティア音楽祭」を開き、障害者がつくったメッセージソングを障害者とボランティアの人たちが一緒に歌い、交流を深めた。
 風ファミリーのほか、宮崎県ボランティア協会の落合孝通さんや県立盲学校OB、県衛生看護学生、授産施設から六グループが出演。車いすの障害者が小学生らとステージに立ち、百人ほどの観衆も一緒になって歌を楽しんだ。
 風ファミリーが歌った「うちよそもんのごた」は脳性まひの多郎浦和子さん(北方町)が「うち外国人のごた 立きらんばってん この町のもん 普通の学校に行きたかった」と養護学校に通っていたことを詞にして、同代表の中島信義さんが曲をつけた。
 音楽祭の収益金は神埼町社協に寄付する。